若者を「老害化」させないために
人間誰しも、物心が付いた時に既に身の回りにあったものは、それが「当たり前」です。
古くから生きている人間にとって、それは技術革新の賜物であったとしても、若い人にとってはそうは感じない筈です。
そして「当たり前」の技術にばかり触れていても、それは特別なことではなく、楽しくありません。
今までなかったものが世に出てきた時、若い人たちは初めて技術の進歩を目の当たりにし、ワクワクしたり、「楽しい」とか思うのでしょう。
昨日のブログ記事を考えている時に、老人が技術革新を受け入れられなくなるのは、既に多くの技術の進歩を目の当たりにした結果、技術革新に飽きてしまったのではないかと思いました。
現在の老人も、若い頃は新しい技術の登場にワクワクしていたと思います。
そして新しいものばかり有難がる若者に向かって、当時の老人は「最近の若いものは…」と苦言をこぼしてたのではないかと。
けど、そうしてワクワクしていた技術進歩も、度重なるとだんだん飽きてくると思うのです。
たしかに便利になったけど、けど今までのを捨てて総とっかえするほど便利か?と。
言っても、電話が一家に一台から一人に一台になっただけです。
メールが、ポストに投函してから数日後に届いていたものが、眼の前で「送信!」とした瞬間に相手に届くだけです。
現像した写真をアルバムに閉じて見せあっていたものが、タブレットなどで見れるようになっただけです。ついでに絵が動くようになっただけです。
ちょっと早く便利になった代わりに、今までは口頭で言ったり手で書いたりすれば済んでいたものが、わけのわからないキカイをゴソゴソしなければならなくなったわけです。
だったら「もういらねーよ」となる気持ちは分からないではないかな・・・と。
かくいう私も、日進月歩の最先端辺りをずっと垣間見てきたせいか、新しい技術について食あたりを感じています。
なんで折りたたみスマホなんているの?折りたたむくらいならもとのガラケースタイルで良いんじゃね?液晶面を無理に折らなくてもいいじゃん。と。
同じような刺激を浴び続けると段々と耐性が出来て、刺激と受け取れなくなるのは当然の現象です。
なので、老人が新しい技術についていけなくなるのはある意味、至極当然のことではないかと思うのです。
けどそのコトを若者に言っちゃうのは、技術革新を止める行為に等しいのではないかと思うわけです。
ましてや、自分が環境を変えられるのが嫌なだけなのに「若者に美しい自然を残すため!」とか言っちゃうのはもう、一番ダメな行為なのではないかと。
老人にとってはもう必要ない技術革新も、若者にとってはまだまだワクワクするコトなわけです。
もし若者が技術革新にワクワクしなくなったら、それこそ「火の鳥 未来編」のようなことになってしまうのではないでしょうか。
というわけで、特に先端デバイスなどについて「こんなもの…」的なことは言わないようにしようと思っています。
もし言ってたら注意してください。
ただ、もう飽きてしまった老人のためにも、レガシーな技術は残してくれるよう、お願いします。